熊野三山(速玉大社、本宮大社、那智大社)については、さまざまな伝説や歴史が知られていると思いますが、おとう祭りで有名な神倉神社も神武天皇の時代からの歴史があります。
その神武天皇との関連ですが、「古事記」や「日本書紀」において、神武天皇が東征の途上で熊野を行軍したことが記されています。
高千穂から大和に向かったときに、いったんは地元の豪族の襲撃で撤退したあと、紀伊半島を南に迂回して熊野から北上して大和を再度目指したのですが、その途中に神倉神社で神剣を得て賊軍を平定したということです。
平安時代後期には、神倉山は神倉聖(かんのくらひじり)と呼ばれる修験者たちの修行場となるなど賑わっていましたが、院や貴族の参詣もなくなった室町時代以降は、熊野三山を含めては経済的に苦境に立たされます。
そこで、より多くの参詣者を集めるために、熊野比丘尼(くまのびくに)と呼ばれた僧形の女性芸能者たちが、熊野牛王宝印を売り『那智参詣曼荼羅』などを絵解きしながら諸国を勧進して歩き、熊野の聖なる土地としてのイメージを人々の心に浸透させて、熊野信仰を全国的に広めていきました。
江戸時代には、紀州徳川家や新宮領主の浅野氏・水野氏の崇敬を集めることができたため、神倉神社も変わらぬ繁栄を続けていきます。
その後、一時期の荒廃のため明治40年に熊野速玉大社に合祀されたこともありましたが、大正7年に小祠を再建したのを手始めに、昭和に入ってから社務所、神橋、大鳥居などが相次いで再建され、社殿や鈴門などを新築し今日に至っています。
現在は社務所に常駐の神職はおりませんが、「熊野三山元宮」と記載された朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取扱われています。